2022/10/14
今から15年ほど前、初めてのワーキングホリデーでオーストラリアに行った。
(*ワーキングホリデーとはオーストラリアでバイトが出来きて最長1年間滞在できるビザです)
今でもマイナーな【ワーキングホリデー(略してワーホリ)】ですが、
15年前は、興味がある人しか知らないもんだった。
この時はワーキングホリデーのビザの精度がある国は、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドの3カ国だけだったと思う。
どの国が年齢制限25歳までで、どこが30歳までだったか忘れてしまったけどビザ取得には年齢制限がある。
僕がオーストラリアを選んだ理由は、3カ国の中では1番暖かそうな国だからってだけだ。僕は寒いのが大嫌いですからね。
この1年間はいろいろ有り過ぎた・・・お婆ちゃんとの泣き別れ・・・そして死別・・・
うちは両親が共働きだったので、ずぅ~~~っとお婆ちゃんに面倒をみてもらって小学生・・中学生・・と大人になっていった。
反抗期もあったし、くだらない事で喧嘩もしてたけど、すっごく仲がよくいつも一緒にいた。
車の免許を取っても、友達と遊ぶよりもお婆ちゃんと遊んでる方が多いくらいなもんだった(この頃のお母さんは飛び回っていたので、お婆ちゃんと一緒にいた)
そんな毎日がラクだし楽しかったのが20歳前後だったかな。
でも、僕は19歳の時に大きな病気をしてしまい、死にかけた。
お母さんもお婆ちゃんも凄く心配してくれて本当に嬉しかった。
でも、この病気がキッカケで海外を見てみたくなったんだ。なんか自分が明日死んじゃう気がしてね。
病室では大好きなルパン三世の漫画も読んでた。
僕のブログを読んでる方なら何度も出て来てると思いますが、海外に行きたくなった理由の1つがルパン三世だったりします。
地元、足利の狭い世界だけみて死ぬかと思っちゃってたんですね。19歳で。
かと言って、東京とかには全く興味がなかった。
それで20歳頃からワーホリって精度を知って、調べるようになったんです。
でも、当時はネットがない。(あったのかもしれないけどオタク食が強くて、まだ一般的ではなく普及率は低かったと思う)
だから情報収集は本屋だけなんです。
アノ頃は、よくワーホリや旅行関係の本を買ってたなぁ~。。。
でも、なかなか旅立てないんです!お婆ちゃんが心配!そしてお母さんもお婆ちゃんも大好き過ぎて離れたくない。。。
僕が20歳頃は、お婆ちゃんは80歳を越えていて足腰は弱くなっていた。
でも、まだ外出は出来た頃だったけど、いつも心配してました。
だからってのもあるけど、やっぱ20~24歳の3~4年間って、僕の人生で1番何もやっていなかった時期なんですよ。
バイトの面接を受けては、ちょっとやって辞める・・・の繰り返しで、ゲームばかりやってた頃でした。
まぁ、今も基本的に変わらず、バイトの面接して辞めて・・の代わりに派遣バイトの単発をやってるだけだし、ゲームの代わりにネットになっただけなんだよな。
でも、今の生活は【楽・・・】でも、ワーホリに行ってみたい・・・いつ行くのがいいのか・・と悩みながら・・・
決断したのが24歳の時だった。
そして旅立ちの朝、お婆ちゃんとは泣き合った。
僕はお婆ちゃんのベッドの脇で話していた。
お婆ちゃんは『これ(ワーホリ)にかかった、お金を全部払うから、行かないで欲しい・・』と僕を止めた。
僕は涙が止まらなかった。
もう、出なきゃ電車に間に合わない・・・。
お婆ちゃんは『海外なんて遠いから、お婆ちゃんに何かあっても戻って来れないね・・・』と寂しそうに言った。
本当に辛かった。
お婆ちゃんは立て続けに『もう、お婆ちゃんも歳だから1年も外国に行っちゃったらわからないよ・・』とも言ってきた。
でも、余命宣告をされてる人や、重病ではないので、1年は大丈夫!という気持ちもあった。
僕は『海外なんて近いよ!何かあったら、すぐに帰ってこれるよ!』って言った。
お婆ちゃんは『もし、死んじゃったら、死に目に会いにも来れないね・・・』なんて事も言ってきた。
僕は『そんな事言わないでよ!すぐ帰ってこれるんだから!』と言って、
後ろ髪を引かれる思いで部屋を出ようとした。
お婆ちゃんの最後の悲しい笑顔は一生忘れないだろう。
それから2ヵ月後・・・・
お母さんから国際電話があった。
なんか嫌な予感がした。
当時の国際電話は本当に高かった。
だから、無駄な話なんかする事がないはずなのに、
『元気でやってるかい?』とか世間話を数分してきた。
僕は何か嫌な予感がしたけど、『お婆ちゃんは元気?』って聞いた。
そしたら、お母さんは『お婆ちゃん、昨日から意識がなくなっちゃって。。。』と言いにくそうに話し始めた。
僕は心臓が止まる思いだった。
僕は『えっ!?死んじゃうとかじゃないよね?』と恐る恐る聞いた。(答えがわかってるんだけど覚悟きめて聞いた感じだった)
お母さんは、『もうダメかも・・・。明日には危ないかもしれないから、お葬式は兄ちゃんもお姉ちゃんも帰って来てやるから大丈夫だよ・・。帰ってきたら線香上げてくれれば・・』って言ってきたから、
僕は『やだ、僕も帰る!』と言って、すぐに宿に戻った。
(上のビーチの写真がゴールドコーストなんだけど、電話はこのビーチで受けた)
すぐにチケットセンターに走って、割引料金じゃない片道10万以上するチケットを即決で買い、
宿代は何日か支払い済みだったけど、返金なしでそのままチェックアウトして、空港に向かった。
とはいえ、オーストラリアから日本は遠い・・・。ブリスベン経由で成田だったと思う。
それでも、足利に戻ってくるまで電話を受けてから24時間経ってないんじゃないかな。
僕は成田に着いで電話し、お母さんと兄や姉が成田から足利駅着の時間を逆算して駅で待っていた。
僕は大きなバッグパックを背負いながらダッシュで病院に行った。
お婆ちゃん・・・・集中治療室で強制的に呼吸させられてる感じだったけど意識はなかった。
僕は『お婆ちゃん!ほら、帰って来たよ!!』と叫んだ。
お母さんは、『一昨日あたりは危なかったんだけど、帰ってくるよ!って言ったら頑張ろうって感じになったんだよ』って言ってきた。
僕は再び『おばあちゃん!帰って来たよ!!』って言ったら、
まったく手の反応も何もなく微動だにしないおばあちゃんから涙がこぼれた。。。
姉ちゃんや兄ちゃん、看護婦達から、『ずっと待ってたんだよ・・・』って言われた。
そのまま、お葬式をして10日間くらいは日本にいたと思う。
この時24歳。人生最大の悲しさと辛さを味わった。
僕はガクンと落ち込み、何もする気が起きなかった。
それと同時に、自分を責めた。
『お婆ちゃんは僕がいなくなって寂しいから体がおかしくなっちゃったんだ!』と・・・
多分、そうだと思う。
本当に可哀想なことをした。
寝込むほど落ち込んでる僕に、みんなはゆっくり休んで元気出して・・・と言ってくれた。
この時、オーストラリアに行って3ヶ月経たない時だ。
ワーホリのビザ的には9ヶ月以上残ってる。
でも、ガクンと落ち込んでいて、何もしたくないし何処にも行きたくないってのが本音だった。
みんなも優しくしてくれるし、ろくな物を食べてないオーストラリアの生活に比べて、お母さんのご飯も美味しい。
このまま、もうオーストラリアに行く事はやめて、ワーホリ終了するか・・・とも思ったけど、
旅立ちの朝のおばあちゃんとの話、約束を思い出した。
もし、僕が1年間行くと言わず、2ヶ月で帰ってくると言ってたらどうなっていたのか?と思ってしまう。
待つ人の気持ちで2ヶ月と1年ではえらい違うと思う。
ましてや、飛びまわれる人じゃなくて、半分寝たきりのような生活をしていて、毎日いっぱい話したりしてる家族がいなくなる寂しさは計り知れないと思う。
だから、1年と言った責任というか約束は守りたかった。
正直、オーストラリアだってバイトしなきゃ生活する事は出来ない点では、
場所が日本じゃないってだけで、やってる事は日本と同じだった。
日本よりも安い時給で働かせられる。
本心としては、もう帰りたいと何度も思った。
日本で、僕がどれくらい仕事が嫌いなのかをリアル友や家族ならよくわかると思う。
すぐ辞めちゃうんだ。辛くなると耐えられなくなっちゃうんだ。
でも、僕はおばあちゃんとの約束・・・『1年行って来るよ・・・』という言葉を意地でも守りたかったんだ。
そして、僕はオーストラリアに戻って1年間滞在した。。。。
あの出来事・・あのワーホリから15年・・・今は独りボッチになってしまった・・・
お婆ちゃんが死んでから、13年後には最愛のお母さんも死んでしまった。
辛すぎる・・・。
毎日の生活が苦しい。
精神的にも肉体的にも辛い。
でも、良いか悪いか、1人ボッチになってしまった今だからこそ、誰を心配することなく旅行ができる。
(実際、お母さんが癌になってからは、海外なんて考えられず4年間は1度も海外旅行はしなかった。する気持ちになれなかった)
そういう意味では、金銭面の問題などがあるので数ヶ月間とかは無理ですが、
数週間の旅行も、お金さえ工面できればできる環境になってしまった。
最近は、もう2度と来る事もないかもな・・・と15年前に思って帰国した、
オーストラリアに行ってみたいな・・・って気持ちが出てきた。
この気持ちになるのも、時間がかかった。なぜなら、辛い思い出を思い出しちゃうから近寄りたくないって気持ちもあったから。
もちろん、ゴールドコーストのビーチに行けば、おばあちゃんが危篤・・という国際電話を受けた事を思い出すだろう。
でも、今のしょぼくれた40歳の僕とは違う、若さからくる元気さや勢いはあの時はあった。
だから、元気だった頃の面影を探しに、バックトゥザフューチャーしにシドニーに行ってみたいと思っている。
郊外の住んでた町や、住んでたアパートの外観とかも見てみたいしなぁ~。
重く暗い話に付き合ってもらってありがとうございました・・・。
最後に、暗い話ばかりなんなので、オーストラリアで撮った楽しかった頃に撮った写真の一部を貼っておきます。
日本ではBBQなんてやらない僕がBBQに参加してる貴重な写真^^;
一緒に住んでたシェアハウスのみんな。
みんな良い人だったな・・・。
全員に会いたいけど今みたいにメアド交換なんか率先してしてなかったから残念・・・。
向こうの警官は頼りになって優しいし国家権力を盾にして偉そうじゃないからいいですね
ボンダイビーチの夕焼けは綺麗だったな~・・・。
たまに~言ってたな。(*隣の子は彼女ではありません。たまに遊んでくれてた優しい子です)
後ろのオージーの女の子が面白かったから、これをチョイスしました。(*隣の子は彼女ではありません。いろいろ相談に乗ってくれて優しい子でした)
コメント
これで3度目のコメントです。かな
by ヒグラシ 2016年6月16日 13:16
かなさん!今回、初めてしっかり届いていました!
by 81jin 2016年6月30日 13:47
初めまして。おばあちゃんの話泣けました。いつかオーストラリアにまた行ってみたらいいと思います。新しい思い出を作りに。
by Ryo 2017年12月14日 17:59
はじめまして。
コメントありがとうございます。
おばあちゃんも、おかあさんも大好きだったのに、
2人とも死んじゃって、ホント毎日辛いです。。。
オーストラリアには、エアーズロックが再来年辺りから登れなくなるそうなので、
それまでに1度行って登ってみたいと思っています。
1度行った時は、雨で登れませんでした。。。。
by 81jin 2017年12月14日 18:02
中々辛い日々が終わらないのは、それだけ大好きだったんでしょうね。
自分も3年ほど前におばあちゃんを亡くしまして、亡くなる数日前に病室で『死にたくないよ』と泣きながら言ってたのが印象に残っています。大丈夫だよとしか言えませんでしたが。。90近くまで大きな病気もなく生きたとはいえ、まだまだ生きたいと言う素直な欲求は自然なものなのかなって感じました。何はともあれ元気に過ごして行くのが残された物の定めだと勝手に思っています。
ウルルは自分も行った事がないので見てみたいですね。81jinさんが行った時は雨でしたか。。今まで何十人も転落死したりお大怪我してるようなので登らなくて正解ですね。ただ雨天の時はエアーズロック表面を伝う水よって滝が出現する事もあるようなので、その光景を見れたならラッキーかも知れませんよ。
by Ryo 2017年12月15日 00:10
おばあちゃんも、お母さんとも辛い最後でした。
辛くない最後なんてないのかもしれませんが・・・。
マザコンと言われますが、お母さんがいない世の中は何をしていても本心からは楽しめません。
楽しかった事をお母さんに報告して、そのリアクションが大好きだったからです。
今は虚しさしかなく、ただ生きているにすぎません。
はい。エアーズロックを流れる滝は見ました。
いつか機会があったら、このブログにも写真を載せたいところですが、
なかなかエアーズロックやオーストラリアの記事を書くタイミングがないのが残念なところです。
エアーズロック周辺の雨の日数をみると、ある意味、貴重な体験なのかもしれないんですけどね(^_^;)
by 81jin 2017年12月16日 21:45